これ読んだ。
先に言っておくと、多少なりともおもしろいと思えたのは 5章と6章のみ。
ていうか、まともに理解できた(と思えた)のがこれらの章だけだった。
正直、ものすごい読むの苦痛だった。
とにかく説明が下手。
読んでてイライラする。
大してすごい考えを持っているわけではなさそうなのにもったいぶった喋り、かつ、無駄が多い上に説明不足かつ曖昧な表現が多いために理解しづらい文章。
自分の抽象的な説明に若干酔っているように見受けられるところもあって、引く。
翻訳が悪いというわけではなさそう。
こんなに読みにくい本は久々。
ちょっと言い過ぎた。
…
著者の主張は次の一点に尽きると思う。
「感覚は行為である」
それは、例えばこんな感じ。
目の前にあるリンゴがなぜ見えるのかというと、その物体をリンゴとして能動的に見ようとしているから。
カメラでリンゴを撮った場合、カメラはリンゴをリンゴとして認識しているなんてことは当然ない。
人間とカメラではそもそも映像の捉え方が違う。
人間はリンゴをリンゴとして見ようとする。
その行為によって初めてリンゴがリンゴとして見えるようになる。
カメラにはそれが不可能。
なぜなら、人間が行っている「見る」という行為を行えないから。
正常な人間はそもそも「リンゴをリンゴとして見ない」なんてことが不可能。
でも「リンゴをリンゴとして見ること」ができない人がいるらしい。
で、それが「盲視」と呼ばれているらしい。
ふと思ったけど、「盲視」ってそんなに特別な状態でもなさそう。
自分の知らない言語で書かれた文章を目にした時の感覚がこれに近いんじゃないかな。
どういう文字が書かれているかはわかるけど、どういう内容なのかはわからない、みたいな感覚ね。
リンゴがリンゴに見えるのもすごいけど、文章が読めるっていうのも、よくよく考えてみるとすごい能力だよなぁ。
…
全体として非常に読みにくい印象だったけど、いくつか面白いところはあった。
一つの種類の感覚インプットを別の種類の感覚インプットに代行させる可能性の研究には、1960年代末にポール・バック=イー=リータが他に先駆けて着手した。彼は、被験者に特殊な装置を装着させた。この装置は、映像を取り込むテレビカメラと、それを振動に変換して肌で感じられるようにするために、機械仕掛けのバイブレータをずらっと平面上に並べたものからなり、被験者は、驚くほどわずかの練習をしただけで、触覚情報を使って、周りにある物を正確に視覚的に判断できるようになった。バック=イー=リータは、この現象を「皮膚視覚」と名づけ、被験者たちは限定的ではあるが視覚的知覚を得ていると、何のためらいもなく主張した。
– p.62..63
要は、視覚のためのインプットは必ずしも「映像」である必要はないんですね。
人間はパターンから外界を認識することができるのだと思います。
ていうか、こういう研究事例をたくさん集めて適当に編集するだけでかなり面白い本ができそうな気がするんだけどなぁ。
そんな簡単じゃないか。
フリードリヒ・ニーチェは、意識の根底にある社会的次元を強調し始めた人の一人だった(ただし、その功績を認められることはめったにないが)。彼はこう書いている。「意識は実際のところ、人と人の間のコミュニケーションの網にすぎない。意識はそのようにしか発達しえなかった。猛獣のように群れずに生きる人間だったら、意識は必要なかっただろう」
ニーチェは、そのコミュニケーションの網がどのように作られるかの説明における先駆者だ。
他者を理解すること、それは、その人の感情を自分の内で模倣することで、私たちは……他者の目つき、声の調子、歩き方、挙動を、自らの体で模倣することによって、その感情を自分の中に生み出す。すると、行動と感覚の間にある太古からの連合作用によって、似た感情が自分の内に生まれる。私たちは他者の感情を理解する技術を、完成度の高い次元まで発達させており、他者の前ではつねに、ほとんど無意識にこの技術を使っている。
身体行為の模倣によって共感が生まれるという考えを1880年代に示していたのだから、その先見性には舌を巻く。
– p.115..116
ニーチェすげー!
こんなこと考えてたんだ。
…
ま、最後の方はそこそこおもしろかったので、最後まで読んで良かったなと思いました。